『月下薔薇夜話逸文 弐』
- yz0824
- 2024年10月31日
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長春城外城、皇太兄府。
宵闇の降りた後庭に、嫋々たる琴の音色が流れている。
名手でもなかなか弾きこなせないという秘曲を、緩急自在に響かせるのは邸宅の主だ。
桃李はつい聞き惚れ、楼台の手前に足をとめた。
花の香りが漂う。
四季咲きの薔薇だ。
花香と夜陰を震わせる名琴は〃春囀〃という名だと聞かされている。
ふと曲が途切れる。
「来たか、李桃李」
音曲の合間に詩を吟ずるように、イバラがそう呼んだ。
皇太兄の麗しい姿が楼上にある。
真紅の袍。背に解き下ろされた漆黒の髪。
「はい、殿下。ここに」
即座に拝跪して桃李は応じた。
足早に薔薇園を過ぎ、階段を駆け上がって間近へと参ずる。
気配と匂いで待ち人の到来を悟ったに違いない。〃血鬼皇子〃の顔でイバラが「ニ」と笑んだ。
机に楽器が据えられている。
「平郡王に贈ったものが、先日返してよこされた。〃不調法者には似つかわしくない名器ですから〃などと殊勝なことを言っていた。どうやら見せびらかすばかりで弾かなかったらしい。相変わらずの音色に、こうして恋人の不在を慰められている」
どうだと笑みつつ、ビィンと爪弾く。撓めるくちびるの端に、チラと牙の先がこぼれて見える。
いかにも愛おしそうに琴を撫でるので、桃李は問う。
「奏でておられたのは何という曲でしょう。かつて耳にした曲とは違うようでした」
以前、この場所で同じ琴の音色を聞いた。
仲違いし、激しく互いを責める最中のことだった。
……確か『離別之曲』。
あのとき聞いたのは悲痛な曲であった。
思い起こせば、いまでも胸を絞られるようだ。
離別は二度と御免だと顧みながら、桃李は、ぐ、とイバラのそばに寄る。
おもむろに真紅の袖を揺らして、イバラが琴の代わりにこちらを抱いた。
お付きの太監は茶を淹れるために下がって不在である。
「『桃夭トウヨウ』という曲ですよ」
声色を茶荘主人のそれに変えて、イバラが教える。
引き寄せられて桃李はいささか仰のく。
「桃夭?」
「古い詩に典雅な曲をつけたものです。お聞きなさい……」
〃桃の夭々ヨウヨウたる
輝くような、その花
桃の夭々たる
ふっくらとした、その実
桃の夭々たる
青々と茂るその葉〃
歌いながらイバラがジッと見つめる。
燭台の灯りを映して瞳が紅く色づく。
花と歌いつつ頬を撫で、実と言いつつふいに口づけた。
楼下から湧き上がる薔薇の香りに噎んで、桃李は喘ぐ。
……桃花の季節ではないというのに、いまは。
〃青々と茂る葉〃と口ずさんでいったい何をするつもりかと、はたと我に返って桃李は居住まいを正した。
「あいにく平郡王様と同じ不調法で、いっこうに詩を解しません」
薔薇園の向こうに、おそらく楊太監であろう人影が見えた。
イバラがおかしそうに微笑んだ。
「知っている。我が情人は夜に弾ずれば佳き音色を聴かせるというのに、昼はいっこうに風雅を解さない朴念仁だ。北辺から幾度となく恋文を書き遣っても、ついに詩の一編たりともよこさなかった」
恨んでいるぞ、と詰られて困惑する桃李である。
虎北の戦場から度々便りを送られ、どう返事をしたものかと弱りきったのは本当だ。
もともと詩作が苦手で、しかも恋詩となると難敵中の難敵。
想う相手から美辞麗句で口説かれて嬉しくないわけはなく、意味を解さないわけでもないが、どう応ずれば正解なのか皆目見当がつかなかった。
「殿下の詩が嫌いなわけではありません」
「当たり前だ。東宮時代は皆がこぞって褒め讃えた。宰相からも博士からも絶賛された。ケチのつけようがあるものか」
「返詩を作ろうと、一応は試みました」
「書き送ればよかったのだ。どんなに不出来でも喜んだはずだ」
実は試しに作った詩を、暁春眠に見てもらったことがあった。
官界の俊才が目眩を催して唸った。
『ははぁ……これはまた〃寒い〃だの〃遠い〃だの〃隔たる〃だの〃死地〃だの、これでもかと不吉な語を織り込んだものですねぇ。押韻はまずまずですが、いかんせん仕上がりが凄まじい。どうしたらこんな凶悪な詩が出来上がるんです? 小雀様。もしかして送る相手を相当嫌っておいでですか?』
溜息をつかれ、きっぱり断念したのだった。
す、と姿勢を正して桃李は告げる。
「昼は役立たずですが、夜にはしかと働きます」
イバラが〃得たり〃と喜色を滲ませた。
「約束ですよ、衛士どの。豪語したからには、どんな秘曲を奏でてくださるか楽しみにしています。とはいえ、弾ずる場所を選んで愛器と戯れなくては。皇太兄府の庭から夜な夜な妙音が響き出しては、ことでしょう? 長春雀の嘴が何と言って姦しく囀るやら。ですから、そう……なろうことなら、いつぞやのように茶荘の地下ででも」
〃桃の夭々たる
その葉の蓁々シンシンたり〃
歌いつつイバラがあらぬあたりへ触れようとするのを、サッ、と桃李は遮って、
「夜分に働くのは蝙蝠の性分です、殿下。薔薇衛よりご報告をお持ちしました。内城の米倉で盗難がつづいているとのこと。調査したところ兵部の下級役人が手引きしているらしく、背後に黒幕がある可能性も疑われます。ついては秘かに現場を探らせてはいかがでしょうとの、朱指揮使の献策です」
はきはきと告げると、イバラが紅いくちびるを歪めた。
「なるほど。つまり〃働く〃とは閨のうちではなく、米倉の屋上のことか」
「は」
「官服を脱いで横たわるだろうと期待させておいて、実は黒衣を着て出かけるつもりということだな」
「は」
そのとおりです、と応じると、やおらイバラが立ち上がる。
夜風に靡く絹袖は真紅色だが、灯りが翳って漆黒の羽かと見紛う。
袖を靡かせ、つか、と楼閣を歩み出た。
「お指図を、殿下」
願うと、相手が艶然と笑み、
「春囀には、互いに響き合うと伝わる〃玲瓏〃というもう一張の琴がある。北驀に取られていたものが帰って、いまは宮中に蔵されている。琴にも連れ合いがあるのだ。蝙蝠もつがいで飛ぶべきだ」
楊太監が小宦を連れて、フウフウ息を切らして上がってきた。
「殿下、ただいまお茶を……お菓子は胡桃入りの南瓜餅だそうで……やや、どちらへ?」
淹れ立ての名茶に目もくれず、イバラは楼閣を降り、薔薇園を過ぎて、奥庭を出る。
足早に行くイバラに、桃李も遅れずついていく。
「李桃李」
「は」
「夏焔の命を果たしおおせて、なお夜明けまでに間があれば、覚悟せよ」
虎北の地から書き送られた数々の恋詩を思い起こして、桃李は「くす」と笑む。
どれも皆、典雅この上ない美詩だった。
〃宰相も博士〃も、と聞けば「なるほどそうだろう」と納得をする。
いずれの美姫とどれほど睦み合ったのかと、読んで顔を赤らめたくなる麗句もあれば、まるで恋を知り染めた少年のよう、と感じさせる初々しい詩編もあった。
けれど、
……遠方からよこされる千の美句よりも、その直截な口説きのほうが好みだと聞かせたら。
果たして相手は、茶荘主人の顔で笑むだろうか。
それとも皇太兄の顔で機嫌を損ねるだろうか。
どちらにしても、と恋人の横に並び立ち、
「は。仰せのままに」
~黎明~
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