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『月下薔薇夜話逸文 壱』

 

 長春城、初夏。

 待夏園の牡丹が今年は少々早く開いた。


 昨年は先帝崩御の喪のうちであったので、花園の門も鎖されていた。

 二十五月の忌みが明けて、今年は朝から晩まで都人が花見に詰めかけている。


 春湖畔の天鏡楼で、青桐がうきうきと声を上げる。


「坊っちゃん! 日暮れどきになったら、楽児と三人で牡丹を見に出かけましょう。チラッと花を拝んだあとは大春路に出て、久しぶりに一杯やるのはどうですか?」


 若番頭として楼の帳場におさまる楽児が「乗った」と喜ぶ。


「今晩は早上がりだから付き合えるぜ。行くだろ? 衛士どの」

 そういうことなら仕事はさっさと切り上げると、嬉しそうな顔だ。


 誘われて、しかし、桃李は「すまない」と断った。


 官服姿で天花街に立ち寄ったところ。

 綺麗に建て直された血鬼巷をうかがい、賭場の鼠穴の様子を見て、春湖左岸へとまわってきた。


「あいにく先約がある」


 告げると青桐が「ええ?」と残念がる。


「近ごろは汚職も聞かず、盗人も出ずで、てっきり暇なんだと思いました。先約って、いったいどんな約束です?」


 訊くのを、楽児がすかさず脇から小突く。


「野暮を言うもんじゃねぇよ。〃鬼の李捕吏〃か、はたまた〃花の李捕吏〃かっていう衛士どのだろ? 務めが暇で鬼が休みなら、花のほうで楽しまねぇと。なぁ?」


 どこぞの女と花見に決まってるだろ? と。

 ひやかすのを聞いて、ますます青桐は気になるらしい。


「えっ、坊ちゃん、いつの間に? もしかしてウグイスさんがお城の仕事を退けて会いにくるんですか? それとも俺の知らないあいだに別の〃いい人〃が?」


「いや、ウグイスは宮仕えで忙しい。陛下のおそばに侍る立場で、そうそう遊びに出られるわけもない」


 約束の相手は彼女ではない、と知らせるにとどめて「フ」と微笑んだ。


 青桐の言うとおり、ここ十日余りの長春城はやけに平和である。

 捜査すべき格別の案件もないので、何やら手持ち無沙汰なほどだ。

 仕方なくこうして紅楼の見まわりなぞしている。


 夜間にも悪事を知らせる呼び笛は鳴らず、火災を報ずる鉦も聞かれない。

 まるで牡丹の花期を邪魔せぬように、一切の災厄が鳴りを潜めたようだ。


〃あまりに無事がつづくと禁軍衛士の士気が落ちる。体がなまってはいけないでしょう?〃


 明晩はしかと働かせてあげましょう、と。

 笑みを含んだ美声が、そう耳もとに囁いたことを思い出し、桃李はおのれの首筋に、す、と手をやった。


 楽児が美男面をニヤつかせる。


「なぁ、青桐。まんがいち花の向こうで〃鬼〃が逢い引きしてても、知らん顔をしなきゃなぁ」



     *  *  *



 夜。

 月下茶荘でイバラを待つ。


「しかと働かせる」と言われたので、官服を着たままでいるべきか、それとも黒装束をまとうべきか、いささか思案した。

 結局、緋色の官服を脱がないことにした。


「無粋な花見客もあったものだ」


 地下道をくぐってあらわれるなり、恋人がそう笑った。


 宵闇に浮かぶ美貌を、桃李はまぶしく仰ぐ。


 濃藍の袍に薄青の風除け。

 漆黒の髪を束ねる巾は暗紅色。

 上着のまえを留める七宝飾りが牡丹花の意匠なのは、わざわざ花見らしく装ったのだろうか。


 ……ということは、待夏園での任務ということか?


 手を束ねつつ「官服では都合が悪かろう」と察する。

 イバラはいかにも逍遙にあつらえ向きのいでたちだ。


「お待ちを、殿下。すぐに着替えてまいります」


 自分も余所行き姿にならなければと、桃李は踵を返す。

 隣室の箪笥に衣服がある。

 と、


「緋色の桃花か。悪くない」


 ぐ、と腕をつかまれ引き留められた。


 すっぽりと胸にとらわれて「急ぐ用件ではないのか?」と訝しむ。


 耳のそばでイバラのくちびるが動く。


「牡丹を花の王と讃えるのを、つねづね解せなく思っていた。たとえ余所ではそう謳われようとも、ここ長春城のうちでは薔薇をこそ崇めるべきだと」


 背後から抱きすくめつつ、イバラが茶荘の庭を指す。


 薔薇園であるが、ちょうど春咲きが絶える時期で花が少ない。

 昼間に老駝が通って、せっせと肥料をやっている。


 花談義なぞするのは何の謎かけだろうと考えるところで、不意討ちのように音を立ててイバラが首筋に口づけた。


 桃李は「あ」と狼狽えた。


「殿下」


「嫌ですか? 衛士どの」


 身じろぐ隙に、固く結わえたはずの官服の帯をするりとほどかれた。


 嫌というわけではないが、あくまで任務が先だと桃李は拒む。


「花見の先で事件が待つのでは? しかと働かせると言うから、俺は務めがあるものと……」


「シッ。国務に忙殺される皇太兄を慰撫することも、ひいては都を安んずるための重要な任務でしょう?」


 静かに、と強いながらイバラが強引な接吻をよこす。

 顎をとらえて振り向かせ、浅く、深く、息つく暇もないほど口づける。


 きちと合わせていた襟を割り、手指が白衣のうちへと潜り込む。


「花開く様を見せてください。さあ」


 緋色の花弁をくつろげよ、と貴人の口ぶりで責められ、踏みとどまれずに寝台にくずおれた。


 房事に流されては肝心の務めに身が入らない。

 過度な戯れはよしてくれと抗うが、


「ぅ……イバラ……は…………殿下、任務を……っ」


 花芯をやんわり含まれ、あえなく力が抜けた。


 血鬼の牙が経絡を咬む。

 血流が逆巻き、乱れる吐息が睡房のうちに響く。


 イバラが似合いの花見装束を惜しげもなく脱ぎ落とす。


 揺らぐ灯火に裸身があらわとなる。


 牡丹の留め具がキラリと光って床に落ちた。


 淫情に弄ばれつつ、桃李は身をよじり、


 ……平穏に身を持て余す薔薇衛士を慰めるのは、果たして誰の務め?


「あぁ、蝙蝠、俺の」



     *  *  *



 数日後、天鏡楼。

 青桐がぶつくさと不平を言っている。


「断固、花見を仕切り直さないといけねぇ! どこのお偉方だか知らねぇが、庶民の楽しみをかすめ取るなんてとんでもねぇヤツだ! 一番の見頃に待夏園を独り占めなんて、勝手にもほどがある!」


 茶を飲み飲み楽児がなだめる。


「そう怒るなって。〃貸し切りだ〃と門前払いを食ったあと、大春路でしこたま飲んだだろ? そもそも花は酒のついでだと言ってたのは、てめぇじゃねえか」


 先日、二人して牡丹を見に出かけたところが「さる貴人のお求めにより今宵は閉園」といって追い返された。

 以来、青桐の不満は収まらない。


「そりゃあ花より酒だぜ! けど、見られるはずのもんが見られねぇと気分が悪ぃ。今夜こそ坊ちゃんを誘って三人で花見に行こう。な、楽児!」


 しつこい勧誘に楽児は「わかった、わかった」と生返事。


〃待夏園の貸し切り〃は、都人のあいだでも様々な憶測を呼んでいる。


『いったいどなたのお求めだろう』


『もしかすると御上がお忍びでお花見に?』


『いやいや、きっと平郡王が取り巻き連中と遊ぼうとしたんだよ』


『一晩中、園の御門を見張ったってヤツが〃誰も御苑には入っていかなかった〃と首を傾げてたぞ』


 謎だ、不思議だ、と天花街でも話題になっている。


「今晩こそ花見だ」と勇んで主人の約束を取り付けに出ていく青桐を見送って、楽児は「フフン」と笑う。


「謎でも何でもねぇさ」


 酒好きの青桐も、盛りの花は諦められない。

 花に勝るのは必ず花なのだ。


「待夏園の牡丹を袖にしたヤツは、おおかた別の花に気移りしたんだろうさ」


 花の王にも勝る、さぞかし魅力的な一輪だったんだろうさ。



           ~黎明~

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