『忘記』
四龍島西里、山の手の白龍屋敷。
回廊の角で万里に行き合い、呼びとめた。
「万里大人、邪魔をしている。花路の帳簿を持参した。『白龍』は居室だろうか」
「ただいま『白龍』は客房で南里の使いと懇談中です。もう間もなく居室に戻られる頃合いでしょう」
部屋でお待ちください、と促されて飛はうなずいた。
このところ帳簿を届ける役目を孫大兄に譲っていたが、久々に南荘に上がるつもりで今宵はみずから携えてきた。
……南里の使いというと木材商か。樹林房主人や桃は息災だろうか。
親しい面々を思い浮かべれば「ふ」と頬が緩む。
居室に入って待つと、ほどなく待ち人が戻る。
靴音を聞くまえからひやりと察せられるのは、西里の『龍』が漂わす得も言われぬ気配だ。
他を寄せつけぬ冷気と言おうか、只人とは思われぬ神気と言おうか。
余人なら思わず「あ」とたじろぐであろうその気配に、かえって飛は「待っていたぞ」と胸を震わせる。
「『白龍』」
「来たか、花路」
銀髪銀眸の主が、つか、と居室のうちに歩み入った。
洋燈の灯りに目映く照らされるマクシミリアンの美貌を、飛はまっすぐ仰ぎ見る。
「南里の使者に会ったとか。用件は何だろう」
「ああ……北里から木材買い入れの打診があったと、わざわざ知らせにきた。他には変わり映えのしない用事が二、三。いっそ南里主人の醜聞でも囁けば、多少は楽しめるものを。北と商いを結ぶのに、いちいち西の顔色をうかがいにくるとは殊勝なことだ」
苦労なことだ、と言ってマクシミリアンが目をほそめる。
銀灰の瞳だ。
そこにおのれが映るのを飛は感ずる。
「西里の『龍』は格別性悪だと南里の木材商らは心得ている。根回しせずに商えば、のちのち余計な苦労を引き受ける羽目になる」
賢い打診に違いない。
告げると、相手が綾紐で束ねていた髪を解きつつくちびるを歪めた。
「確かに……西の龍玉にこそこそと色目を使う次代『黒龍』に、難癖をつけるいい機会にはなったろう。〃西里に断りもなく船を仕立てて、さては本土との商いを横取りするつもりか〃とでも言いがかりをつければ、愉しみが増えたはずだ」
さも性悪な面持ちで口の端を吊り上げ、マクシミリアンが「どうだ?」と訊いた。
次代『黒龍』とは、すなわち雷英のこと。
目下『小黒龍』と呼ばれる彼とマクシミリアンとは、言うなれば〃因縁の仲〃である。
街と街との争いをふたたび起こしてやるぞと戯れ言の口調で聞かせるのが、必ずしも戯れとは限らないことを飛は知っている。
しかし、あえて「くす」と笑んでみせる。
「大概にしてくれ、『白龍』。その目を北里ではなく、まず足もとに向けてもらいたい。花路の帳簿にあんたの署名と印がいる。夜市からも龍江街からも大船主組合からも、決済を求める書状や嘆願の文書が上がる頃合いだろう。龍玉の心配なら無用だ。たとえ無理に掠われたとしても……」
携える帳簿をマクシミリアンの胸に押し当てたところで、ぐっ、とやにわに顎をつかまれた。
「うっ」
顔をしかめ、仰のくと、ひやりと青みを帯びる双眸に会う。
「忘れているぞ、花路」
「とは……何を」
「目を向ける先を誤ったのは、おまえだ。龍玉」
刃を擬すような冷ややかさで銀灰のまなざしが迫った。
「顔を合わせるなり〃南里の使者〃と口走ったのはおまえだ。目のまえの『龍』の機嫌を問いもせず」
まずは、おのれの主を見るべきだ。
ほかのなにをも見るべきではない。
そうではないか?
「性悪な男の機嫌取りを怠って余所見をすれば、理由なぞなくとも幾らでも難癖をつけてやろう。南里であれ、北里であれ、本土であれ……争う相手は誰であろうと構わない。おまえが振り向きさえすればいい」
どうだ? と、いま一度問われて、飛は銀灰の双眸を仰ぎ見た。
ひりひりとした緊張に肌が粟立つ。
血の滾りを胸に感ずる。
……つまりこれは歓びだ。
街同士のことなぞ口にしつつ「違う。告げたいのはこれではない」ともどかしく思ったのは、こちらも同じ。
性質苛烈な『龍』をしかと見据えて、しかるべき挨拶を聞かせ直す。
「あんたに会いにきた。マクシミリアン」
さあ、その瞳で存分に俺を射るといい。
[想起]
Comments