『サンキュウのカクゴ』 ~お坊さんとお茶を~
百猫山孤月寺は、東京下町にひっそりと山門を開く赤字寺。
その台所から、とんとんとん、とリズミカルな音が響いている。
僧侶見習いの三久は商店街への使いから戻ったばかり。
バタバタ台所へ降りたとたん、慌ててなかへ声をかけた。
「あっ、空円さん!? 斎座の支度は僕がやります!」
作務衣に前掛けで俎板のまえに立っていたのは、住職代理の若き僧侶、空円だ。
すらりとした姿は、まるで清らかで近寄りがたい飛鳥仏のよう。
背筋正しく、まなざし厳しく、いかなるときにもシンと落ち着き払って物事に動じない。
白い顔には実に理想的に目鼻が配置されている。
額の真ん中に、てん、と黒子がひとつついている。
左右均等、少しの歪みもないのがかえって目立つほど端正な容貌だ。
会社をクビになって行き倒れ寸前のところを拾われた三久にとって、彼は恩人であり、ひたすら尊敬する〃氷の仏像〃なのである。
「お帰りなさい、三久」 包丁を握る手を、ぴた、と止め、空円はコンロにかけた鍋の様子を確かめた。
「覚悟は外出して不在です。以前も言いましたが、わたしは僧堂修行中、料理係である典座職を務めたことがありました。
得意というほどではありませんが、調理の基本は心得ているつもりです。今日は寺務も忙しくありませんので手伝うのはあたりまえのこと」
手際よく出汁をとり、お麩を水でもどし、山盛りのパセリを鮮やかな手つきで刻みだしている。
……お麩とパセリ? い、いったい何を作るつもりなんだろう、空円さん。
人として非の打ち所がなく見える空円和尚だが、実は唯一の弱点が〃味オンチ〃だ。
修行時代のあだ名のひとつが〃地獄典座〃、つまり〃地獄の料理人〃だったと、三久は覚悟から聞かされたことがある。
料理上手の覚悟和尚は今朝から不在。 『三久、留守番よろしくな。たまには四九日らしく息抜きしてくる。こないだの法事で、手伝い先の寺の総代さんの孫娘から〃今度テニスしませんか?〃って逆ナンされちゃってさぁ』
シクニチというのは修行僧堂における休日だ。
四と九のつく日は作務が休みだったり、入浴が許されたりする。
孤月寺は僧堂ではないが、俗世にあっても修行を怠らない空円ルールで、お風呂と私用外出は四九日のみと決められていた。
『でもって、いつもどおり空円のヤツには料理させんなよ』
パチッとウインクひとつを残して出かけていった覚悟に、三久は心のなかで「しくじりましたぁ」と報告だ。
「ええと、とりあえず手伝います。斎座のメニューは何ですか?」
「お麩とパセリの黒酢あんかけに、白的、梅干し。いまから干し豆腐の酢の物を作るところです」
「ほ……干し豆腐は僕にまかせてくださいっ」 聞いただけで口をすぼめたくなる献立に肩をすくめつつ、三久はあたふた調理台のまえに立つ。 と、
「あ」
珍しく空円が小さな声をこぼしたのが聞こえて、ふり返った。
「どうかしましたか?」
「大したことはありません」
とんとんとん、とふたたびリズミカルに音を立てる彼の手もとに目をやり、三久はギョッと目を瞠る。
「くっ、空円さん! ちちち、血が出てます!」
見れば、白くて長い空円の人差し指が赤く染まりだしている。
不注意でケガをしたらしい。
手もとがくるって切れ味のいい包丁で左手を傷つけたようだ。
「て、手当てっ。し、消毒っ」
「落ち着きなさい、三久」
「だってケガ! ばば、絆創膏!」
慌てふためく三久の目のまえに、少しも顔色を変えず空円が、すい、と血の滲む指を持ち上げた。
「見てのとおり、わずかな傷です。こうして指を上げておけば調理に支障はありません。
そもそも禅宗の二祖である慧可は初祖菩提達磨に入門を願って許されず、その不動の決意を示すために自らの腕を斬り落とし、ようやく弟子と認められました。
二祖に比べればこれしきの微々たる傷、何ほどのことでしょう」
冷ややかな口調で恐ろしげなことを言う。
「それより黒酢あんの味見をお願いします」 「は、はいぃ」
すっかり動揺した三久は、ついつい言われるまま差し出された匙をパクリと口に含んでしまった。
「う」 とたんに、あり得ない酸味にぐるんと世界が回転する。
「うえぇーーーーっ」
すかさず〃氷の仏像〃の叱咤が飛んできた。
「喝! これしきの出血に悪心を催すとは修行不足」
「ぅえっ、はいっ、おぇっ」
……違うんです、空円さん。
酸味たっぷりの地獄ランチのせいで、午後じゅう不調に悩まされた三久だ。
「干し豆腐のおかげで何とか完食できたけど。にしても空円さんの黒酢あん、すごかった」
思い出すとまだジンワリ涙が滲む。
溜息をついて腕時計を見ると、じき七時だった。
「いけない! 四九日だ」 お風呂を沸かすんだったと、お腹をさすりながら庫裡を出た。
孤月寺のお風呂は年代物のボイラーが屋外に設置されていて、入浴まえに浴槽に湯を張るのは見習いの三久の仕事になっている。
経費節約のため、これも決めごとで寺の住人は一緒に風呂を使うことになっている。
しかし、三久はいまもって空円と湯船に浸かったことがないのだった。
物心ついて以来、肉食も異性も遠ざけて修行に専念する〃清僧〃の空円。
そんな彼と一緒に湯船に浸かることは、とてもではないが畏れ多く、仏罰が当たりそうで怖い、というのが〃混浴〃回避の理由である。
ガチッガチッといまにも分解しそうな音を立ててボイラーを運転させる。
そこで、 「あ」
三久は、ハッ、と昼間のアクシデントを思い出した。
「指にケガ……ってことは、お風呂で手が使えない?」
調理中に包丁で指先を切った空円。 調理のあとに手当てをしたが傷は思いのほか深く、きつめに巻いた絆創膏にみるみるうちに血が滲むほどだった。
庭の隅にしゃがみ込み、三久は悶々と頭を悩ませる。
「どうしよう……。知らんぷりして空円さんに先に入ってもらって、いつもどおり僕は残り湯に?
だけど、空円さんはお昼ご飯を作ってくれててケガしたんだし。
ものすごい味だったけど僕も半分ご馳走になったわけだし。
で、でも心の準備が……うわっ、湧かしすぎちゃった!」
悩むあまりに時間を忘れ、湧かしすぎた湯をあとから水でうめるハメになった。
……このまんまじゃ、お湯が多すぎるって叱られる。
一緒に入るしかないと、とうとうカクゴを決めた。
「きっ、着替え。パンツ。ええっと新しいのはどれだっけ?」
いったん部屋に戻り、バスタオルと着替えとを抱えて風呂場に向かう。
廊下を歩むにつれてドキドキと鼓動が早くなる。
……く、空円さんとお風呂。〃仏像〃とお風呂。
何事も時間きっちりの空円はすでに支度をととのえ、先に入っているらしい。
三久が脱衣場に足を踏み入れるのとほぼ同時に、ガチャリと浴室の扉を
開け閉めする音が聞こえてきた。
……心頭滅却、心頭滅却!
緊張のあまり息切れしながら、四月八日の花祭りを想像する。
灌仏会とも呼ばれるお釈迦さまの誕生節には、右手で天を指し左手で地を指し示す誕生仏に甘茶をかけて供養する。
生まれてすぐに七歩あゆんで「天上天下唯我独尊」とのたまうた釈迦に、天の竜王が甘露の雨を注いだ伝説にちなむ祭りだ。
……そうだ! 空円さんは誕生仏で、風呂のお湯は甘茶だ!
そう考えると〃混浴〃へのハードルが、ギリギリどうにかクリアできそうだ。
または、と次に考える。
あちこちのお寺にある、撫で仏。 〃おびんずる様〃とちょっと変わった名で呼ばれるその仏は、賓頭廬尊者……ビンドラ尊者という釈迦の弟子で、十六羅漢の第一に数えられる人物だ。
尊者は神通力に秀でていたことから〃おびんずる様〃を撫でると体の具合の
悪いところが治るという信仰を生んだという。
……空円さんは〃おびんずる様〃だ。そう考えればゴシゴシこすっても平気だ、きっと。
パパッ、と作務衣を脱いで潔く裸になった。
かつての勤め先でもらったキャラクターグッズのバスタオルを広げ、羞じらう乙女のようにぐるぐる体に巻いて、三久は果敢に浴室へと向かう。
甘茶だ。
おびんずる様だ。
シントウメッキャク!
「失礼しま……」
扉に手をかけようとした瞬間、背後からドタドタドタ!と騒々しい足音が聞こえてきた。
「うーっす! 風呂沸いてる?」 「覚悟さん?」
勢いよく飛び込んできたのは覚悟和尚。 どうやら外出から戻ったばかりらしい。
Tシャツを脱ぎ脱ぎ、大股で脱衣場を突っ切ってきて、
「テニスで汗だく!
三久、風呂上がり?
悪ぃ、ちょっとどいて。
よぉ、空円、邪魔するぜ!」
ズカズカざぶん! と遠慮のない音が響く。
「あー、気持ちいい! あれぇ? おまえ手ぇ、どした? 背中流してやろうか?」
湯気で曇る向こうから空円の淡々とした返事が聞こえてくる。
「結構です。必要ありません」
「そう言わねぇで、たまには同僚に甘えろよ」
「すべて片手ですませました。人の世話を焼くまえに、おのれの心の垢を
すすぐべきでしょう」
取りつく島もない叱咤のあと、ザザァひたひた、と湯船から上がってこちらに近づく気配がする。
ガチャリ!
「おい、何だよ。早く閉めろよ」
浴室の扉が開いて、そのあと覚悟の不満声が聞こえてきた。
「熱気が逃げて寒いだろ」
「覚悟和尚」
「何?」
「浴司では私語を慎むべきですが、防犯のためにあえて言います。
たったいま、極彩色のマントをひるがえした素裸の男が脱衣場から逃げ去りまた」
変質者です、と空円がきっぱり言い放つ。
バタバタ廊下を駆け戻りながら、三久はすっかり冷えたお腹に手を当てる。
……仏様、僕はまだまだ修行が足りません。