『南荘一夜ノ夢』
夜の帳に覆われた西里山の手、白龍屋敷。
高台に設けられた別棟の南荘に、幾日かぶりに帰ってきた。
再三「帰れ」と求めてよこし、ついには色街までわざわざ使いをよこして「あらわれなければ目にもの見せてやるぞ」と脅した相手は、今宵に限って姿を見せない。
汗を拭い、髪を洗って夜着に着替え、枕もとに沈香を焚いて休む支度をした。
ひやりと夜風が肌を冷やす季節である。
茶を淹れようかと思いついたが、寝台にいったん腰を下ろすとそれも億劫に感じられた。
……疲れているか、自分で思うより。
ふ、と笑みに口もとを緩めた飛である。
ここ数日、走ってばかりいた。
商家街での物盗り。
夜市の揉め事。
郊外で起きた事件の調べに仲間とともに出張りもした。
果ては素封家の酒宴につき合い、今夜は少々酒を飲み過ぎている。
「あんたがいなくて、よかったか」
『白龍』と、不在の相手に向かって呼びかけつつ、体を褥に横たえた。
たちまち重い眠りに抱き込まれる……。
*
ふわりふわりと寝台の帳が揺れている。
ああ、これはあの男の居室に違いないと、帳の色模様からすぐさま悟った。
口々に叫ぶ声がする。
「『白龍』!」
「『白龍』さまっ」
差し迫った声色で身内らが呼んでいる。
「ああ、どうかお気を確かに」
「医生、どうにかならぬのかっ。お薬は? 療治の手立ては!」
「申し訳ございません、かたがた。もはや、手の尽くしようがございませぬ……」
がっくりと肩を落とす老医師の背中が目の前に見える。
「花路の頭」
背後から呼ぶのは屋敷執事の万里だ。
「万里……大人」
かすれ声でどうにか返事をした。
抑揚のない調子で万里が淡々と事態を告げてよこす。
「『白龍』には今朝方にわかに人事不省に陥られ、ただいまこのとおり眠るように息を引き取られました。色街には至急の知らせを二度三度と走らせましたが、あいにくあなたは不在で」
「どいて、くれ」
ぎくしゃくと足を運んで寝台のそばに寄る。
ふわ、ふわりと帳が揺れている。
薄布をかきやると、その姿が見える。
ぴくりとも動かず、静かに横たわっている。
まるで神龍が人の形を借りたかのような麗しい容姿。
褥に広がる銀糸の髪。
鼻梁高い異相。
眠るように、と屋敷執事が言った。
そのとおり、ただ穏やかに、安らかに、束の間休むようにしか見えはしない。
「『白龍』」
……穏やかに、だと?
この男に限ってそういうことがあるものかと、怖れが身のうちに突き上げた。
……そんなことが、あってたまるものか。
挑みかかるべき龍玉をまえに、おとなしく瞼を閉じ、ちらともまなざしをくれず、皮肉のひとつも吐きもせずに、静かに寝入ることなぞあるものか。
「あ」
おかしい。息がつけない。
短い声をもらしたきり、あとは言葉も出ない。
早く近くへ寄って手を伸べなければ。
襟を引きつかみ、無理やり揺さぶり起こさなければ。
目を開けろ、『白龍』。
銀灰の瞳を見せてみろ。
くちびるを動かしていつもの戯れ言を吐け。
辛辣な台詞で憤りを煽れ。
質の悪い企みで人を脅せ。
平穏に倦んで争乱を招け。
冷ややかなまなざしで俺を射ろ。
気紛れな手指でこの胸を掻き乱し、荒々しく俺を抱け。
息ができない。
息がっ!
*
「花路」
美声を耳に注がれたとたん、ハッ、と胸に息を吸った。
溺れたものが水面にようやく顔を出すようだ。
「ハッ……ハア、ハア、ハアッ……あ」
息がつける。
仄暗いなか、仰ぐ先にマクシミリアンの美貌がある。
夢か。
夢でなくてなるものか。
そう思うより早く、体を起こしざま相手をかき抱いた。
ハアハアと荒く息をつくばかりで、ものも言えずに数瞬。
と、低く嗤う相手が耳もとで言う。
「満足だぞ、花路」
途切れ途切れに飛は問う。
「いったい……な……にが」
何があんたを満足させたのだ。
まさか夢見の悪い男に力ずくで抱かれて歓ぶわけではなかろう、と。
喘ぎながら訊ねると、平素は先に攻め手をよこすばかりの相手が、珍しく後手にまわった格好で含み笑い。
「いいざまだと言っている。いったいどういう類の夢にうなされての体たらくか、察しがつく」
そのことを歓ぶのだと、悦に入る調子で相手が言った。
ちりちりと耳朶に翡翠の飾りが揺れている。
硬い翠玉を蕩かさんばかりの声色で、たやすく人の心を逆撫でしてくれる。
……困った。
ほどなく息がととのい、鼓動も落ち着きを取り戻したというのに、性悪な男を抱き寄せた腕のほどきかたがわからない。
枕辺の沈香がくすぐるような匂いを立ち上らせている。
甘いような清らかなような香りのなか、マクシミリアンがやおらこちらの胸を押す。
その背にまわしていた手がするりとほどけて落ちる。
灯火をほそめてあったので、互いの顔もしかとは見ないまま。
なのに相手はつれなく去るらしい。
「悪夢のつづきを見ることだ」
次に目覚めたときには正房居室まで駆け下ることだ、と。
冷ややかに憎まれ口をきく男の気配が遠ざかるのを待って、飛は苦笑をこぼす。
「あんたがいて、よかったぞ。『白龍』」
[晩安]